thoughts #002 資本に組み込まれる公共空間

公園の公共性とは

公共空間である公園は、誰でも自由に居ることができる場所である。あらゆるものに所有権があり、それを利用するために金銭的対価が求められる現代社会において、こうした公共空間には誰もが理由を求められることもなく、ただそこに居られる。

公共空間について、アメリカのアーティストで作家のジェニー・オデルは著書の中で以下のように述べている。

真の公共空間とは(いちばんわかりやすい例が公園や図書館だ)、 「われわれのしたいこと」のための場所であり、それを支えてくれる空間だ。誰がなかに入って居座ろうと、公的かつ非商業的な空間は何も要求しない。公共空間とそれ以外の空間とを分けるもっとも顕著な違いは、公共空間ではそこに滞在するために何かを買わなくてもいいし、何かを買いたいふりをしなくてもいいということだ。

出典:ジェニー・オデル著『何もしない』

日本における公園の誕生

日本における公園制度は、1873年(M6)の公園開設に関する太政官第16号をもって始まり、2023年で150年が経つ。名古屋市の最初の公園は、浪越公園(現・那古野山公園)で1879年(M12)に公園として指定された。1887年(M20)頃までには上野恩賜公園(東京)、円山公園(京都)をはじめ、約80の公園ができる。

太政官第16号によって指定された古い公園には旅館、料亭、住宅等の公園施設とは考えにくい民間施設を含んでいたため、1956年(S31)に改めて都市公園法が制定され、都市公園の設置管理の基本となる公物管理法制が確立された。(主な内容:都市公園に公園施設として設けることのできる施設を限定し、都市公園の配置と規模、施設に関する技術的基準を設定、都市公園の建ぺい率を敷地面積の2%に定める等)

日本の都市公園の量的・質的変化の変遷

高度経済成長により過密となった都市空間において、オープンスペースの減少による生活環境の悪化から、1972年(S47)に都市公園等整備緊急措置法が制定される。ここから約30年間にわたり、第6次に至る都市公園等整備五箇年計画によって都市公園等の緊急的・計画的な整備が推進され、この間に約72,000ヶ所、77,000haの新たな都市公園が開設され、量的な拡充が大幅に進んだ。

その後、バブル崩壊を経て2000年代になると、経済社会の成熟化と価値観の変化など日本社会は新たな局面に入る。2004年(H16)に再度行われた都市公園法改正では、立体都市公園制度が創設されるなど、量的充実から質的充実へと公園に求められるものが移行していくことが表れている。

さらに、都市における緑地の保全及び緑化の推進並びに都市公園の適切な管理を一層推進するため、2017年(H29)都市公園法改正が成立した。

公共空間の消費社会への組み込み

2017年の都市公園法改正で新たに創設されたのが、Park-PFI(公募設置管理制度)である。

Park-PFIとは、都市公園を対象とし、国や自治体が都市公園において飲食店、売店等の公園施設(公募対象公園施設)の設置又は管理を行う民間事業者を公募により選定する手続きに加え、公園内施設の設置管理許可期間を10年から20年に延長する特例措置や、建ぺい率を2%から12%まで緩和することが盛り込まれていて、公園ビジネスへの民間参入が加速している。

Park-PFIが制定された背景には、少子高齢化や人口減少、都市の国際競争の激化や社会資本の老朽化、財政の悪化や公共団体職員の減少など、現代の日本社会が直面するさまざまな問題が挙げられる。

そうした課題に対し、今あるものを活用してストック効果を高める(公園管理者も資産運用を考える時代へ)、民間のビジネスチャンスを拡大し公園の魅力を向上させる、都市公園を一層柔軟に使いこなす、といった観点が謳われ、Park-PFIが具体的な施策として導入された。

名古屋市内では、久屋大通公園(大規模都市公園)と小幡緑地(県営都市公園)がPark-PFIを活用している。

一方で、Park-PFIによる都市公園の商業施設化に対する反対の動きも出ている。2011年にリニューアルした宮下公園(東京都渋谷区)は、リニューアル計画当初、入場料を有料とすることや、ホームレスの強制退去などでアーティストらによる反対運動が展開された。それに対し、命名権を取得した企業(ナイキ)の広報担当は、計画は同社のCSR(Corporate Social Responsibility、企業の社会的責任)活動の一環だと反論する。現在、宮下公園は「MIYASHITA PARK」となり、公園自体は入場無料だが、施設利用は有料となっていて、利用料も渋谷区民とそれ以外に分けて設定しており、渋谷区民以外の利用者は2倍の金額となっている。

Park-PFIによって、少しずつ公園という公共空間に資本が入り込み、消費社会に組み込まれている。今後の人口減少による国や自治体の財政縮小や職員の人員不足などを考えると、こうした動きは一層進むのではないだろうか。


非商業的な公共空間と、非商業的な個人の時間について、冒頭で紹介したオデルは、以下のように警鐘を鳴らしている。

目覚めている時間のすべてが生計を立てるための時間と同一になる状況において、自分の余暇さえもフェイスブックやインスタグラムの「いいね!」の数で評価するために差し出し、その成果を株価をチェックするかのごとくつねに気にして、自分の個人ブランドが成長するようすを監視する暮らしを続けるうちに、なんでもないことに時間を費やすのは正当化できなくなり、時間はすべて経済資源となる。何もしないでいると投資にたいするリターンは望めない。そんな態度はもはや高価すぎて手が出ない。これが時間と空間の残酷な合流点だ。非商業的空間が失われていくのと同じように、自分の時間と行動がすべて商業的なものになりうると私たちは気づいている。公共空間が、いかにも公共のものだと見せかけた小売りスペースや企業所有の得体の知れないパークに姿を変えているように、私たちは、「われわれのしたいこと」とは似ても似つかない、余暇は妥協するべきだという考え方、つまりフリーミアム(一定のサービスまでは課金無料だが、それ以上のサービスに課金するビジネスモデル)な 余暇を売りつけられているのだ。

出典:ジェニー・オデル著『何もしない』

公共の水飲み場の「容れ物」としての公園が、「公共空間」としての性質を失っていくとしたら、誰にでもアクセス可能な開かれた「水飲み場」のあり方やそこで立ち現れる「風景」も、この先、変わっていくのであろうか。また、それは私たちにとって、どのような意味があるのだろうか。

少なくとも、今あるそれらを観察し、記録することで、真の公共空間の豊かさの一面を捉えられるのではないだろうか。

参考:
「都市公園150年の歩み」|一般社団法人日本公園緑地協会(https://www.posa.or.jp/150year/)
「公募設置管理制度(Park-PFI)について」|国土交通省 都市局 公園緑地・景観課(https://www.mlit.go.jp/sogoseisaku/kanminrenkei/content/001329492.pdf)