2024年もそろそろ終わろうとしています。
大学も冬休みに入り少し時間ができたことと、いつもお世話になっているパン屋さんが年内営業が終わってしまったこともあり、久しぶりにパンを焼いてみました。
普段からいろいろと料理はしていますが、発酵の力を借りてつくる料理(食べ物)は、待つ時間を与えてくれる、貴重な存在です。
テレビで観たい番組が始まるのを待つ、誰かから手紙の返事が届くのを待つなど、一昔前は何かのために待つというのは比較的日常の中にあった行為だと思いますが、オンラインサービスなどの発達で、そうした時間も以前よりめっきり減ってしまった気がします。
そのせいもあり、こうやって「ゆっくり待つ」が却って、とても新鮮な時間に感じられました。
発酵では、人間ができることは、ただ環境をととのえ、菌たちがせっせと気分よく働いてくれるのを気長に待つのみ。その間、掃除をしたり、運動をしたり、本を読んだり、あるいはただぼんやりとしたり。視界のすみで発酵する生地を捉えながら、待つ時間を楽しむのです。
粉と酵母、水、塩を混ぜ、発酵はホットカーペットの上でブランケットを被せて。時々覗くと、少しずつ生地がふっくらとしてきて、まさに育っている様子が見えます。2〜3時間でやっと倍くらいの大きさになり、生地を天板に出して整形し、また少し発酵をさせてオーブンへ。
カーペットの熱で生地の発酵が進む様子を見ていると、私たちの腸での食べ物の分解も同じメカニズムで起きていることを、改めて再認識します。体温の温かさで微生物たちの活動が活発になり、食物の栄養素を適度な大きさに分解してくれることで、私たちは栄養を体内に取り込むことができるのだと。
食べ物が口に入り、喉を通過し終わってしまうと、なんだかもう「食事」が終わった気になりますが、実は体にとっての本当の食事はそこから始まるのであって、口はただの通り道ですね。
そして、パン生地の発酵を待ちながら読んだのが、藤原 辰史著『ナチスのキッチン』。
19世紀中頃から第二次世界大戦が終わる1945年までの約100年間、その中でも特に2つの世界大戦とその間の時期に焦点をあてて、ドイツにおける台所という空間の変遷を辿った1冊です。
台所は、腸、胃、食堂、口、舌、歯など、消化酵素と物理的運動によって生物の栄養を体内に取り込むシステムの延長に位置する、人間の身体の「派出所」なのである。
序文の中の1文を抜粋したものですが、本の終盤、「『食べること』の救出に向けて」の章では、また以下のようにも述べています。
主婦は「機械」になるべきだ、という、第二次世界大戦下のドイツで執筆されたレシピ集『料理をしよう!』の中の表現を引き合いに、これはいわば「台所の中に人間が埋め込まれること」を求めているものだと指摘します。そして、もう一方で、ナチスの強制収容所で、わずかな食事で強制労働を強いられた囚人たちが、次第に骨と皮だけになっていく現象は、自分で自らの肉体を食べること、すなわち「人間の中に台所を埋め込むこと」に等しく、この2つの究極の合理化は、人間ではなくシステムを優先し、「食べること」という人類の基本的な文化行為を限りなく「栄養摂取」に近づけていることだと訴えます。
ただ、これらナチズムの世界で起こったことがらは、決して現代の我々とは無関係の別世界のこととして片付けられないのではないかと、疑問を投げかける著者。むしろ、我々はこれらと地続きの世界に生きていることを認識しなければならなのではないかと、語りかけます。
本書を読みながら、さて、私自身にとっての台所空間とは何であろうか?と考えます。
食べることとそのための準備(食材を手にいれることや料理の時間も含め)が何よりも楽しみである私にとって、食材と向き合い、出来上がりの味をイメージしながら、時には他の家事と同時並行で、完全にリラックスした気分で料理をする時間は、仕事とも娯楽ともつかない、何ものにも代え難い時間を与えてくれます。
藤原さんのような上手い表現は見つかりませんが、少なくとも、私は台所の機械ではなく、一人の人間として存在しているはずです。そしてまた、台所で使うさまざまな道具も、全てが予定調和ではなく、やや足りなかったり、本来の機能とは違った使い方をすることも多々あります。
さらにパンのように「微生物」という自然の存在が介在する発酵が料理のプロセスに入ってくればなお一層、私と台所の間には、システム化・合理化とは一線を画した、常に揺らぎのある関係性が成立しているような気がします。